太平洋戦争中の空爆その他による犠牲者で、軍人軍属以外の50万9,700余の死没者を供養し、世界の恒久平和を祈念しています。昭和31年10月26日に建立されました。
戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えるために設立された施設です。常設展示室では、写真パネルや実物資料の展示のほか、映像、音響、振動、ジオラマで空襲を疑似体験できます。
平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となった城です。築城以来、戦火をまぬがれたことから「不戦、不燃の城」としても知られています。
第二次世界大戦中の姫路海軍航空隊の
歴史や、「紫電改」「九七式艦上攻撃
機」の実物大模型を展示するほか、同
飛行場から出撃した特攻隊「白鷺隊」
などを映像や資料で解説しています。
パイロット養成のために作られた部隊、姫路海軍航空隊の飛行場滑走路跡です。局地戦闘機紫電、紫電改の試験飛行にも使われました。現在でも当時のコンクリート製滑走路が残っています。
砲弾、爆弾、機銃弾などが格納されていたといわれています。コンクリートの厚さは1mもあり、他のコンクリート製防空壕の2倍以上の厚みがあります。前面には、爆風から格納品を守るための土堤が設けられています。
⻑さ14.5m、幅5m、高さ5mの空間が広がる鶉野飛行場で最大のコンクリー ト製防空壕。防空壕内にはシアターを設置しており、特攻隊員が残した遺の朗読映像を公開しています。
太平洋戦争下の中、錦町木上地区には海軍の施設が建設されました。その一部は戦争遺跡として戦争を今に伝えます。それらを展示物とするフィールドミュージアムのエントランスとして、歴史を紹介しています。資料展示室の他、カフェ、多目的ホール、読書スペースを設置。
「赤とんぼ」の愛称で知られる、布張り複座の複葉機の実物大模型です。人吉海軍航空隊では、海軍飛行予科練習生の整備術の教材として使用されるほか、特攻隊の訓練機として使用されました。資料によると終戦時には96機の赤とんぼが基地内に残されたと記録されています。
火砕流堆積物で形成され、河岸段丘崖に掘削された地下施設は、アメリカ軍による空襲と、九州上陸作戦に対応すべく建設されました。現在、町内には総延長4kmに及ぶ地下施設が残っています。資料館の地下に位置する魚雷調整場跡は、入館料のみでガイド案内も実施します。
戦況の激化に伴い確保が難しくなったガソリンの代替燃料として、全国各地で製造された松根油。人吉海軍航空隊では軍主導による製造が進み、かつての人吉海軍航空隊庁舎居住地区の傍に乾溜作業所が設けられました。現在5基の乾溜釜跡が確認され、保存整備を進めています。
宇佐海軍航空隊の歴史や宇佐から出撃した特攻隊、宇佐への空襲などを紹介するための資料館です。館内では、特攻隊員の名前が残る芳名帳や米軍がガンカメラで撮影した空襲の映像、映画「永遠の0」の撮影用に製作された零戦の実物大模型などが展示されています。
市内に残る戦争遺構めぐりの拠点施設として平成29年4月21日に開館しました。宇佐海軍航空隊の司令部庁舎をモチーフに建設されており、敷地内には、正門門柱の復元モニュメントが設置されています。また、施設内には、この場所にあった宇佐海軍航空隊正門門柱の1基が実物展示されています。
掩体壕は、飛行機を敵の攻撃から守るための施設です。城井一号掩体壕は、戦後50年にあたる1995年に平和のシンボルとして宇佐市の史跡に指定され、公園として整備されました。掩体壕内部には、国東沖で引き揚げられた零戦のエンジンが展示されています。
宇佐には、昭和14年から昭和20年にかけて宇佐海軍航空隊が存在していました。宇佐海軍航空隊跡やその周辺は、戦後復興により、広大な宇佐平野が広がる現在の姿となりましたが、航空隊跡を中心に、「我がまちも戦場であった」歴史を現在に伝える戦争遺構が多く残っています。
館内には、旧海軍創設期から第二次世界大戦時に重要基地となった鹿屋基地、そして、現在の海上自衛隊の活動に至るまでの貴重な資料が展示されています。(鹿屋基地)
串良基地から飛び立ち戦死した特別攻撃隊員・一般攻撃隊員を祀る慰霊塔が建立されています。滑走路跡の2本の直線道路は、桜の名所としても知られています。
串良基地から飛び立った特別攻撃隊員が突撃前に送る電信を受信していた地下壕です。2箇所の出入口は爆風を避けるためコンクリートや土塁が築かれています。
笠野原基地周辺に200基あまり建設された、敵機の空襲等から飛行機を守るために作られた格納庫です。戦時中には零戦が入っていたといわれています。